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文化

日昇無線の歴史

四辻製作所設立

第一次世界大戦の時期には造船ブームの波がおとずれ、因島の建造量が全国1位となっていた。造船所の立地条件として瀬戸内海周辺は、好適地であり多くの造船所が点在している。
中でも造船業は、戦後から昭和の中期ごろまでは活況を呈していた。
日立造船は、その代表的存在であり、所在地は広島県因島にあり造船に携わる人は島の半数以上であったようだ。
 
創業者 四辻金雄
創業者は戦争を経験しており、戦時中は爆弾の暴風で、防空壕になんとか逃げ込んで助かったという経験をよく語っていた。
戦後は、この日立造船でガス溶断や電気溶接の技術者として仕事をしていた一人であった。日立造船に入社して何年か経過したころ、独立を決意。
旋盤1台を購入し、「四辻製作所」を設立、ガス溶断器の修理や得意の溶接技術を生かして、客先の要望に応える鉄製品加工の製作を始めた。

特許取得

創業者である四辻金雄は、手先が器用で機械の改善などにも興味をもっていた。
日立造船の技術者と共同で溶接機の電流調節を微妙に行うため、調節器の中間にマグネットの磁力を利用したフリクションカップリング機構を考案し、共同特許を取得したこともあった。
また、同じ形状に複数の切断をしたいときに型になぞって自動でガス切断ができる装置を考案し数多く販売した実績を有することになった。

1960年(昭和35年)日昇無線発足

 その後、高い技術力を保有していた事から船舶用モータ、航海装置あるいは通信装置などの修理ができないかとの相談を受けることが多くなってきた。
 そこで、昭和35年に小さな船の電気通信設備を設置・修理する仕事をはじめ、「日昇無線」という会社を設立した。船が大きくなれば、扱う装置も大掛かりになり、それに伴い社員の数も増え、山陰地方からも若い社員を呼び寄せて客先の要望に応えていった。
 そのころには、四辻製作所と日昇無線の若い社員のために独身寮を建設し、順調に発展していった。ところが、不運な事に社員寮で火災が発生。新築で建てた独身寮は全焼してしまった。住むところを失った社員たちが傷心していたところ、近隣住民や多くの会社関係者の手厚い援助により、その後も会社を継続することができた。この時ほど、「人の心のやさしさ」を感じたことはなかった。と創業者は語っていた。

1963年(昭和38年) 因島鉄工業団地協同組合設立

 造船業界の拡大に伴い、社業も徐々に発展していたころ、昭和36年に「中小企業構造高度化事業」の「工場集団化法」が施工され、大企業との格差是正、過当競争の是正、生産工程の整理・合理化によるコスト削減、などの趣旨のもと昭和38年「因島鉄工業団地協同組合」が設立され、わが社も協同組合の一員として参画した。参画に伴い、参画組合員の大半は、船体ブロックの下請け製造業として事業活動を展開していった中で、わが社も、協同組合の1区画に土地を所有しこれまでの事業を継続していった。
 組合内には、各社の生産設備をはじめ共同所有の大型クレーン設備などが稼働しており、故障が発生した場合には、電気や機械に関する技術を有するわが社に修理の要請を受けることがしばしばあったとのことだった。
このため、生産設備の保全を専門とする社員を要請するとともに社員数も順調に増やしていった。

転機が訪れる

ある日、創業者の友人から結婚式の仲人を頼まれ、結婚式に出席する前に会社の事務所で仕事の電話をしていた時、脳梗塞で倒れた。幸い最悪の事態には至らなかったものの多少の手足の不自由が後遺症として残ったようだ。中小企業の社長が脳梗塞で倒れたという事は、またたくまに関係者に伝わり日昇無線ならびに四辻製作所は、遅かれ早かれ倒産するといった噂が飛び交った。
創業者は、このことが耳に入ったのか毎日厳しいリハビリを懸命に行い、見事復帰することが出来、自身で創業した2社とも存続させる事ができた。
このことがあってか創業者は、長男の四辻章を四辻製作所の社長に就任させ、東京で大手通信機メーカーの技術者として働いていた次男の四辻修を急遽、日昇無線に呼び戻すことを決意した。

世代交代

呼び戻された四辻修は、社業全般にわたり現場を経験し会社の柱として活躍していった。
持ち前の技術力と通信機メーカーでの経験を生かして、事業内容を見直し、安定経営を図るためには、事業領域の拡大が必須であると判断し、電気制御の分野にも進出していった。
これまで、生産設備の制御には、リレーを組み合わせた電気回路で対応していたのが一般的であったが、制御系の技術革新によりシーケンサ(PLC)が出始めていたことを知り、いち早くこの技術を習得し仕事に取り込んでいった。今では、機械メーカの制御装置の設計開発から取り付け調整に至るまで一手に引き受ける事業の一つに育て上げた。
一つの事業分野を立ち上げた四辻修は、創業者から社長を交代することとなった。
社長交代を機にさらなる社業発展を誓い事業内容の拡大化に対応するため、平成9年に本社事務所、工場ならびに資材倉庫の建て替えを実施した。
わが社は、船舶の通信関連設備から始まった会社であるが、その後電気設備や電気制御を加えた他社に類を見ない総合的な技術力のある会社へと成長していた。

特別高圧受変電設備

日昇無線の取引先工場の電源設備に関する新設工事をはじめ保全業務の経験と実績は、特別高圧受変電設備の建設から維持管理までの依頼を受けるようになった。
因島鉄工業団地協同組合(110kV)はもとより、主要取引先の工場の特別高圧受変電設備(22kV)の建設工事も請け負うことになった。
因島鉄工業団地協同組合の生産設備の老朽化に伴う共同作業工場の建替および埋め立て拡張工事が、県の補助金事業として承認され実施されることになった。わが社は、クレーン設備をはじめ工場電源の設計・新設工事を担当し生産効率の向上に設備面で貢献することができ大きな経験と実績を残すことができた。

日昇コミュニケーションズ設立

平成の時代に入り携帯電話が急速に拡大成長していた。この頃になると携帯基地局の建設が全盛となり、大手携帯キャリア3社は、こぞって基地局の増設によるユーザの利便性向上の競争が活発化していった。基地局工事を請け負ったNECなどの大手通信機メーカーは、膨大な工事量をこなすために通信関連会社を探していたころ、通信分野の工事を得意とするわが社にも声がかかってきた。
この通信関連工事は、これまでのわが社の仕事内容とは、陣容、活動範囲、勤務形態の面で大きく異なっていたため、この分野の事業内容を正確に把握するために、日昇無線から専務吉田優が、代表として日昇コミュニケーションズを設立して対応する事になった。

向島事業所設立

その後、すでに閉鎖されていた日立造船向島西工場の跡地に運搬船から鋼材を搬入し切断加工や表面処理加工後に船体ブロックを組み立て、また運搬船で搬出する、まさに一貫生産工場を建設する構想が、JFE商事と参画予定会社により企画検討された。
このプロジェクトには、これまでの電気や生産設備に関する豊富な経験や取引先との工事実績からわが社も計画当初より参画要請を受けた。
特別高圧受変電設備の新設から工場全般の電源設備およびクレーン等の生産設備の新設工事を請け負い、短期間での建設工事に貢献することができた。
 当該工場は、JFE商事の関連会社としてJFE商事造船加工として発足し、今日に至っている。わが社も本館ビルの一角と構内に日昇無線ならびに日昇コミュニケーションズの向島事業所として活動拠点を広げることになった。 
日昇無線株式会社
〒722-2102
広島県尾道市因島重井町474-15

TEL.0845-25-1178
FAX.0845-25-1639
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